伊勢:朝熊ヶ岳
朝熊岳道から登り、宇治岳道を内宮へ下った。石井神社旧跡の磐座、興玉の森に立ち寄り、県道を歩いて朝熊登山口で自動車を回収した。
- 登山日
- 2020年2月24日月曜日
- ルート
- 朝熊岳道-朝熊ヶ岳-金剛證寺-宇治岳道-県道37号
朝熊岳道
天皇誕生日の振替休日、登山口への到着は9時過ぎになった。既に第2駐車場も満車なので、少し離れた所に自動車を置いて出発する。
登り始めると多数の下山者に出合う。伊勢工業高校の野球部は学校から往復か。廃仏毀釈の名残なのか、顔を削られた石仏を見て立ち止まれば、大量のサカキを背負った親父さんに追い越された。ケーブルカー跡の陸橋は補修工事中。二十二丁の朝熊峠で宇治岳道と出合って展望が開ける。天気は良いが、鈴鹿の山など遠方はボンヤリで残念。


調べると伊勢参宮名所図会(下記)に朝熊峠の絵があった。寛政七年発行なので明治維新の70年程前のこと。杖を突く登山者、数軒の茶店に駕籠が二丁、丁石もあるようだ。明治維新15年前の六十余州名所図会も同じ構図。当時の朝熊峠は絵図のように賑わっていたのだろうか。
現地には「とうふ屋旅館跡」の案内板がある。内務省衛生局の大正11年の資料「各地方ニ於ケル登山ニ適スル山岳…」に朝熊岳があり、同旅館の宿泊料や駕籠代とともに、一日の平均登山者数は夏200とある。絵図の雰囲気からは少なく感じるが、ケーブルカーや登山バスの開通前のことだ。八大龍王社、経塚経由で金剛證寺に下りた。
金剛證寺
境内の参詣者は二十人程か。土産物屋で買い物する人を初めて見た。金剛證寺の絵図も伊勢参宮名所図会にあるが、仁王門前の案内板にある境内図は伊勢朝熊岳絵図のようだ。おちんこ地蔵さんを拝んで宇治岳道へ出発した。
宇治岳道
朝熊峠に戻って舗装路を歩けば建屋前を通過。今日は白いイヌ一頭に黙って見送られる。右は建物跡か、路面には伊勢市のマンホールが幾つかある。ここには何があったのか。
伊勢志摩スカイラインを陸橋で横断すると平坦な青天井の道が続く。楠部峠で電線・電柱にお別れ。ここも伊勢参宮名所図会にあり、景色を眺める人、煙草を吸う人、茶屋の裏で餅をつく人などいろいろ。やがて雨水に削られた道になるが、地元の整備で歩行に支障なし。穴ボコの補修で入れられたばかりの土がまだ軟らかい。
石井神社旧跡の磐座


神宮司庁前の舗装路から脇の茂みに入って数歩で上方に岩があることに気付く。眺める方向次第だが高さ6mの角のようにも見える岩がある。ここは皇大神宮末社・石井神社(いわいじんじゃ)の旧跡らしいとのこと。岩は磐座だったのだろうが、現在は祭祀されているように見えない。ただ、隣接する小山頂上の切り開きは清掃されていた。
朝熊ヶ岳の山中なら、この程度の岩は幾らでもありそうに思えるが、山端に隠されたように存在する現状に意外感を憶える。伊勢参宮名所図会の内宮其三の絵図には左上に「巌やしろ」、右下の手水場(五十鈴川)付近に「岩社」があり、本文では前者を「巌の社」、後者を「巌社遙拝所」としており、当時は周知の事柄であったのだから。
帰路

興玉の森(宇治山田神社、那自賣神社)に立ち寄り、県道37号(鳥羽道)を歩く。神宮神田から見る朝熊ヶ岳山頂の鉄塔は随分と遠い印象だ。6時間余りの歩行だが、疲れた気分で駐車場に帰り着いた。
春節で中国人がバラまいた新型コロナウイルスの拡大期と疑われるので、公共交通機関の利用は躊躇われる。高齢者を介護する立場なので仕方ないが、幾つかの山行プランも宙ぶらりんだ。早期の終息を願う。私の健康年齢も残り僅かも知れないので。
資料一覧
- 朝熊峠 伊勢参宮名所図会:朝熊峠(1797)
- 朝熊峠 六十余州名所図会:伊勢朝熊山峠の茶屋(1853)
- 金剛證寺 伊勢参宮名所図会:朝熊金剛證寺(1797)
- 金剛證寺 三重の文化:伊勢朝熊岳絵図(1832)
- 朝熊山 各地方ニ於ケル登山ニ適スル山岳並海水浴場、水泳場ニ関スル概況(1922)
- 朝熊山 伊勢志摩きらり千選:朝熊登山鉄道ケーブルカー
- 朝熊山 伊勢志摩きらり千選:朝熊山上の賑わい(昭和6年ごろ)
- 楠部峠 伊勢参宮名所図会:楠部峠(1797)
- 石井神社旧跡 石神・磐座・磐境・奇岩・巨石と呼ばれるものの研究-個人サイト
- 内宮 伊勢参宮名所図会:内宮其三(1797)
- 巌社遙拝所 伊勢参宮名所図会:本文(1797)-活字本
- 石井神社 伊勢参宮名所図会:本文(1797)-活字本
行程表
09:26 | 朝熊登山口駐車場、出発 |
10:56 | 朝熊峠 |
11:13 | 朝熊ヶ岳山頂・八大龍王 |
11:41 | 金剛證寺(11:41-12:15) |
13:59 | 石井神社旧跡(13:59-14:07) |
14:32 | 興玉の森 |
15:09 | 神宮神田 |
15:49 | 駐車場 |